青森公立大学硬式野球部の歩み

このページでは、OBの方々からお話を頂きまして、公立大野球部の歴史を探っていきたいと思います。

第5回目は、公立大学五期生、坂上 太介さんにお話を戴きました!


青森公立大学硬式野球部で学ばせてもらったこと

4期生 阪上 太介
はじめまして、お久しぶりです・・このページを通じて同級生や先輩方、そして後輩
達に会えることを非常に嬉しく思います。簡単にですが、自分の野球遍歴について紹
介させていただきます。小学校3年で、サッカーと野球と迷ったあげく「野球」を選択する。ポジションは6
年生までキャッチャー。打順は4番。そして、中学校では、ピッチャーとの確執から
キャッチャーをやめ、セカンドに転身。身長が思ったように伸びず当時、155CM。打
順は3番。3年の時にサードも守り始める。そして、やはり甲子園に行きたくて今治
西高校
を受験、合格しもちろん野球部に入部したが、なぜか(自分ではよくわかって
いる)退部し、ボート部に転部し全国大会出場。と同時に、同い年の野球部は春の選
抜大会に出場。そして、青森公立大学で4年間野球をさせてもらう・・・。現在ソフ
トボールチームを作り、昨年度、市のリーグ戦で優勝。こんな感じで、自分は今まで
野球と人生を共にする機会が一番多かったように感じます。そしてこれからも、野球
と一緒にやっていきたいと思っています。


なぜ、高校時代に一度野球を捨てた自分が、これほどにまで、また野球にのめり込んで
いるかを考えると、
一番の理由は「青森公立大学硬式野球部」の存在が絶対です。

その、公立大硬式野球部で自分が学ばせてもらったことを、ここからは入部の経緯から
思い出と一緒に書いていきたいと思い
ます。

 1995年10月、ボート推薦で地元の松山大学に進学が決まっていた私の頭には
「大学野球」の文字は全くありませんでした。しかし、ひょんな事から推薦を取り消
されて大学進学絶体絶命の危機に追い詰められてしまいました。親も激怒し、「私立
大学には絶対行かさない」と言われ高校退学まで考えていました。そんな中、国公立
で大学を選択するとなるとかなり厳しいラインだったと思います。そこで、自分が高
校時代にしていたボートを活かそうと、前期試験は鹿児島の鹿屋体育大学を受験しよ
うと決心しました。この時もまだ「大学野球」の文字は現われていません。

そして、後期試験をどこにするかを考えた時、進路指導室に無造作に置かれている
青森公立大学の資料になぜか私は引き込まれ、ここしかないと思い(この時既に私の
進路は決まっていたのかもしれません・・・)後期受験は公立大に決定し、意気揚揚と
前期試験に臨むもあえなく撃沈・・、このままではまずい、まずすぎると思った矢先、19
96年3月19日、公立大からの合格通知が奇跡的に届きました。この時に初めて
「大学野球」の文字が頭をよぎりました。大急ぎで、大学のパンフレットを開きまし
たがそこに「硬式野球部」の文字はありませんでした。そして、失意のどん底の中、
大学で何をしたらいいのかも全くわからないまま迎えた入学式、その後、1週間もし
ないうちに数学のテストをさせられ思いっきりへこんだ記憶があります。一通り手続
きやらが終わった後に待っていたのが、サークル紹介でした。硬式野球部はないのだ
ろうなぁ、百歩譲って軟式野球部に入部しようかぁと、ボーっと色んなサークルの話
を聞いていたら、ふと私の耳に信じられないサークルの名前が飛び込んできました。

 「硬式野球部です・・」

 はっと顔を上げ、前を向くとそこには初代代表の田澤 淳先輩が仁王立ちで話をし
始めていました。その時の嬉しさは、もう今でも忘れることが出来ないくらい凄まじ
いものでありました。サークル紹介が終わった後、気分上々の私は、どのサークルに
も寄り道することなく一直線に硬式野球部へ向かいました。1番に名前を書いたのは
今でもはっきり覚えています。そして6人の新しい仲間ができたこともはっきり覚え
ています。

 初めての練習はサンドームで、色んな先輩方がいらっしゃりかなりドキドキしまし
た。同級生にも何故かドキドキし、どんな練習をしたかは、あまりよく覚えていませ
ん。当時、まだ金属バットを使って練習していたのは覚えています。田澤さんはじ
め、先輩方は私達を本当によく引っ張っていただけたと思います。この方々となら野
球を楽しむことができる、思う存分野球ができる、そう感じたのは私が入部してから
間もなく練習試合での事でした。初めての練習試合、代打で出場させていただきセン
ター前ヒットを打った時に先輩方皆さんが喜んでくれました。野球の楽しさを忘れか
けていた自分に、先輩方と野球をしていると何か込み上げてくるものがありました。
授業をサボっても野球には行ってました。スピーチ・コミュニケーションですら、野
球があればサボってました。そこまで、野球に火をつけていただいた先輩方の事は、
今でも忘れていません。先輩方が熱かったから、自分も熱くなっていたのだと思いま
す。そして、私が入部して3ヶ月位経った頃、北東北大学野球リーグに加盟すること
になりました。
ユニフォームのデザイン等、色んな話し合いをしたことが懐かしく思
えます。気が付くと、リーグ戦へ向けバットも木製へと変化していました。


 色んな気持ちが交錯する中、1996年8月10日、25名の部員で秋季リーグ戦
が開幕しました。前日、先輩のご父兄の招待でレギュラー陣ほとんどがお酒に呑ま
れ、当日もグロッキー状態でどうなるのかわからないまま臨んだ初戦の八戸大学戦、
何気に終わってみると7−4というスコアで初勝利をあげてしまいました。
そして第2戦、6−5で苦しみながらも勝利し、終わってみると開幕2連勝という結果で1週
目を終えました。部員全員がこの時「やれる」という気持ちになったのだと思いま
す。そして、第2週、1部から降格してきたばかりの盛岡大学と対戦する事になりま
した。雰囲気に飲まれそうになりつつもがむしゃらに戦う公立大野球部はここでも7
−5で勝利を上げ難なく3連勝
、そして迎えた第4戦、私のエラーで試合が始まりま
ずい雰囲気が漂う中、シーソーゲームの末、8−9で試合を落としてしまいました。

この時に打ったホームランは今、自分が生きている上ですごい自信につながっていま
す。しかし、試合を落とした為、私は自分が喜ぶと試合に負けれしまうような気がし
て、それからはなるべく喜ばないようにしていました。3週目は、不戦勝で、部員に
とっていい休みになりました。4週目、北里大学戦、1戦目は9−2で危なげなく勝
利を収めると第2戦も10−8
という、スコアは厳しかったですが誰も心配はしてい
なかったと思うくらい、当時は勢いがありました。そして最後の週、秋田大学戦、初
戦から厳しい戦いを強いられ、なんとか6−5で勝利しいよいよ優勝へ向けM1とい
う所までたどり着きました。誰もが負けられないと臨んだ最終戦、勝てば優勝という
大きなプレッシャーの中、延長10回までは0−0という緊迫した戦いが続いていま
した。このときの緊張度はAAAだったのは一生忘れません。
延長11回表、6番打者である私に思わぬチャンスで打順が回ってきました。自分が
高校時代途中で野球をやめた劣等感と、何とかしたい、ここで打たなければどうする?
的な心のどこかにかすかに残る期待感が交じり合いながら、気持ちだけは負けないように
振りぬいた結果は2点タイムリーでした。
待望の先制点が入り、よし勝てる・・・優勝だと思いつつも盛岡大学戦の逆転負けがナイン
の頭をよぎり、もう一度気を引き締めなおして向かった最後の守り、信じられない事に
サヨナラ負けを喫し2−3で秋田大学に敗れてしまいました。
私がまた、喜んでしまったのがいけなかったのでしょうか???もう、悔
しくて、悔しくてなりませんでした。結果は、8勝2敗、盛岡大学と同率首位でした
が、優勝決定戦で敗れたため残った結果は2位でした
。このリーグ戦の盛岡大学の
チーム防御率が1.44だったのに対し、2試合で15点をはじき出した公立大野球
部は彗星という以外無かったと今でも思います。しかし、この2位は、私達にとって
優勝以上の何かをもたらしてくれた事は間違い有りません。このリーグ戦無しには、
今の青森公立大学硬式野球部は語れません。その位、緊張し、そして充実したリーグ
戦だったと思います。そして、その年のトーナメント戦で青森大学と試合ができた事
もいい経験になったと思います。

 それからの公立大野球部は、部員不足(1998年春季リーグ戦は部員数13名、
内、投手2名、捕手2名、内野手4名、外野手5名)に悩まされつつも、この時の経
験を活かし、2部リーグで健闘し続けました。2位だったり、最下位になり入れ替え
戦でひやひやしながら戦ったりと、波のあるチームでしたが野球を楽しむ事だけは忘
れてなかったと思います。

 私が4年生になった時も、部員不足と、私達の同級生は就職活動のため野球にあま
り来れなくなり、かなり苦しいと思い臨んだ1999年春季リーグ戦、あろうことか
3部降格という事態に追い込まれてしまいました。なんとか、この責任を取りたいと
4年生全員で奮起し、2部に昇格して私達は卒業しようと夏には再びチームが再結成
され、3部リーグはもちろん優勝し、入れ替え戦にまでこぎつけました。そして迎え
た入れ替え戦、北里大学戦、1回戦は危なげなく勝利を収め、よし明日も勝って2部
昇格だと意気込んだ2回戦、接戦の末黒星を喫し、もう公立大野球部にとって後が無
い、そして私達4年生にとっても後が無い状況に追い込まれ絶対に負けられない3回
戦、どちらが先制点をとるかで試合は決まると思っていたのですが、あろうことか
サードへのイージーフライを私が落としてしまいました。そして、先制点を奪われた
私達は、ベストは尽くすものの試合には負けてしまいました。この時、三部残留が決
定し何もしてやることができなかった責任をひしひし感じると共に、後輩達になんと
言ったらよいかもわからないまま私の4年間は終わりを告げる事となりました。初め
てリーグに参加して優勝を逃したときの悔しさと、この敗戦の悔しさは今後も忘れる
事はできないでしょう。

 自分の野球遍歴と、公立大で野球をさせてもらった事をふと考えてみた時、自分一
人の力は微々たるもので、周りの先輩方や後輩に支えられながら野球ができたんだと
思います。野球はつまらないと思っていた私に野球の楽しさを先輩方、後輩達が教え
てくれました。
ヤジに弱かった自分を先輩方が支えてくれていました。エラーをして
も、「打って返してくれたらそれでいい」と言いつづけてくれた竹内君初めとする
数々の投手陣の方々、常に自分の味方をしてくれた野手の方々に支えられていまし
た。気が付けば、それが自信になり野球を通して大人になれました。今となっては、
すべてがいい思い出として自分の心の中でこれからも生き続けることでしょう。

 今、青森公立大学硬式野球部の活躍は、愛媛県にいる私はインターネットでしか確
認できません。



青森公立大学硬式野球部の熱い血を引き継いだ後輩達へ。
 相変わらず野球を楽しんでくれていますか?今もグランドは卸球場など危険がいっぱ
いのグランドでのびのびと野球をしていますか?
部費が少ない、遠征費が大変だとか色んな問題があるとは思いますが、
まず今、自分が青森公立大学で野球をしていることに満足して下さい。
皆さんの歳での先輩との出会い、別れそして後輩達との出会いそして別れを大切にしてください。
その「出会い」と「別れ」は野球を通して、野球以上に教えてくれるものがたくさんあります。

その教えは、これから自分が社会にでていく上ですごい効力を発揮します。
そして、自信につながります。今は怖いもの知らずの学生でいて下さい。
自分が一番野球がうまい、そしてかっこいいと思ってください。
でも、自分より上は必ずいると思っていてください。遠征では、羽を伸ばして
大いに盛り上がって下さい。・・・・・・・・・。
公立大野球部を通して学ばせてもらえる事は数えればきりが無いほどあります。
どの部分をどう使うかは自分次第です。

公立大においては勉強との両立が大変だとは思いますが、勉強、野球、そして遊
ぶことにメリハリをつけてやれば大学4年間を楽しむ事ができるでしょう。野球がう
まくなるためには練習が大切です。それは、野球経験者の皆さんがよくわかっている
ことと思います。野球を途中でやめた私が、違う目で見させていただいた場合、練習
だけではない上に挙げさせていただいた様なことも野球がうまくなる要因の一つだと
思います。これからも、皆さんの活躍を遠い所からではありますが応援させてもらい
ます。一生懸命することや熱くなる事は決してかっこ悪いことではありません。一生
懸命、そして熱く、頑張ってもっともっと上を目指しこれからの残りの大学野球、
大学人生をより充実させてください。


最後になりましたが、田澤さん、松田さん初めとする硬式野球部を結成していただた先輩方、
本当にありがとうございました。1つ上の先輩方も、できの悪いと言うか、癖のある私を引っ張っていただきありがとうございました。同級生の竹内君、エラーばっかりしてごめんなさい。
3つ下までの後輩達、毎晩アパートに呼んでごめんなさい。
今の私がいるのも全部、公立大野球部のおかげです。いい出会いと、いい別れをありがとうございました。


    記事を寄せて戴いた坂上太介さん、お忙しい中、どうもありがとうございました!!
    今後も公立大学野球部をよろしくお願いします。