アダム・ミケヴィッチ像

黙示の象徴:アダム・ミキェヴィッチ像

建立の意義

写真:アダム・ミキェヴィッチ像モニュメントは、地域ならびに国内外の人々との『交流のシンボル』であるとともに、青年たちの教育・研究の場『大学のシンボル』ともなるものとして選ばれました。

この像は、二つの意思を表しています。一つは、垂直で、地面から高く掲げた像の左手を経て空へと向かう「希望」をシンボライズし、もう一つは、前方向へ「自由」を求めて勇躍歩み出さんとする意思を表しています。

さまざまな国の人々との「交流」を通じて「希望」と「自由」を讃え上げた偉大な詩人の姿を、ブールデルは、独自の類稀なる造形力によって、ダイナミックで崇高なフォルムを持ったモニュマンに昇華させました。
内に勇壮な情熱を秘め、端正にして風格に満ちた彼の姿に、青森公立大学の若き学生たちは、高邁なる「希望」と果てしなき自らの「自由」を求め、今、まさに麗しい青春の日々を謳歌しているのです。

建立の経緯

写真:アダム・ミキェヴィッチ像像の選定は、青森市在住の彫刻家:田村進氏が、青森市からの委嘱を受け監修者となり、その選定から設置まで、市長をはじめ関係者の意見を確認しながら当たられました。
発注、鋳造、輸出入通関、搬入と約5ヶ月余りの期間を経て、開学前年の平成4年12月本学に到着、設置されました。
像の据付にあたっては、田村進氏が、自らテラスに植栽する3本のハルニレとの配置関係、像の角度などに細心な配慮をはらわれました。「希望」を象徴する高く掲げた左手の前方は、遥か彼方の八甲田山頂にキッチリと合わせています。また、石の台座も田村進氏の設計になるものです。

アントワーヌ・ブールデルは、1861年、南フランスのモントーバンに生まれ1929年、パリのアトリエで没するまで、ロダンやマイヨールとともにフランス近代彫刻の三大巨匠のひとりとして活躍し、近代彫刻黎明期の礎を築いた偉大な彫刻家です。
作風は、ロダンの流動的なフォルム、柔軟な肉付けに対し、ゴシック彫刻に傾倒した、より建築的な量塊の構築に確固たる存在感を求め続け、遂には美術史上でも稀有なモニュマン作家としての地位を確立しています。
全作品は、パリ市立ブールデル美術館(住居とアトリエを拡張)に展示され、館を訪れる世界各国の人々に深い感銘を与えています。
本学のこの像は最晩年を飾る代表的な傑作のひとつであり、ロディア館長(ブールデルの実娘)のサイン入りの証明書が付けられています。

人物像

写真:アダム・ミキェヴィッチ像アダム・ミキェヴィッチは、ポーランドで最高の偉大なる愛国詩人といわれ、著名な音楽家のショパンと同時期に独立運動家として活躍した人物です。
1798年のクリスマス前夜、ニーメン川上流のノヴォグロデックという町で生まれました。
13歳で父を失い、貧しかった彼は、教会、ドイツ人の富豪や親戚たちの援助を受け、念願のヴィルナ大学を卒業した苦学生でした。
大学時代の彼は、ヴォルテールやルッソーらの自由思想を学び、また、ギリシャ、ラテン、古代ポーランド語の研究に努め、後世、スイスやフランスの大学で古典文学の講義を行えるほどの実力を養いました。
また、ローマのホラチゥスの詩に心酔し、さらに数学やヨーロッパに関する諸問題についても熱心に学んだ大変な努力家でした。
ポーランドの悲運を嘆き、ポーランドの独立にかけた熱情はショパンと等しく、亡命先のパリで運動し、ショパンは直接的な運動・行動には出ませんでしたが、彼は、義勇軍を率いて行動し、旅先のイスタンブールで客死しました。(1855年)
この意味で、フランスでは、ショパンとミキェヴィッチは共に尊敬され、パリに彼の記念像が建ったのも不思議ではありません。

代表作の一大長編詩「バン・タデウシュ」は、各国で翻訳されており、1999年にはワイダ監督により映画化されました。このほか「祖先の人々」「青春賛歌」「一伍長の歌」などがあります。
ショパンは彼の詩からインスピレーションを得て多くのバラードを作曲したと言われています。
ポーランドの各都市には必ずと言っていいほど「ミキェヴィッチ通り」があり、ヨーロッパでは、レオナルド・ダ・ヴィンチに次いで高名な偉人といわれています。